用賀00 「用賀・馬事公苑」コース

Hyoushiyouga 用賀・上用賀と玉川台の一部を範囲とする「用賀・馬事公苑」コースのスタートは東急田園都市線「用賀」駅となります。

石柱は全部で33ヶ所あります。2006年10月9日に取材しましたが、その時点ですべての石柱は存在します。

        「てくたくまっぷ」はこちら

1.玉電用賀駅跡 17.庚申塔
2.真福寺 18.第六天様跡
3.火の見やぐら跡 19.旧玉川村村長邸
4.田中橋 20.旧用賀名主邸
5.延命地蔵 21.本村稲荷
6.旧京西小学校跡 22.天神溜池跡
7.向大橋 23.衛生材料廠跡
8.向稲荷 24.覆馬場
9.八幡社跡 25.北見橋跡
10.東条英機邸跡 26.馬事公苑
11.法教上人塚跡 27.東京農大農場跡
12.戸越農園跡 28.谷沢川湧水池跡
13.用賀神社 29.三峰神社
14.大山道追分 30.砧パークブリッジ
15.水道みち 31.洗い場
16.無量寺 32.用賀いらか道
  33.中丸地蔵

ところで、「用賀」という地名は、鎌倉時代にヨガの道場が近くにあったからという説があるのをご存知ですか。ヨガ→ヨーガ、あまりにありげな展開です(^-^;

昭和のはじめ、現在の馬事公苑の敷地を帝国競馬協会へ売却した資金で、整然と碁盤の目のような区画整理が行われ、今は落ち着いた住宅街となっている用賀地区ですが、旧大山街道の道筋など昔からの道も残っています。「てくたく」しながら、そんな区画整理される以前の面影を思い起してみてはいかがでしょうか。

2006年10月9日

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用賀01 玉電用賀駅跡

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『明治40年(1907)4月、この道に玉川電車(タマデン)が通りました。ガタゴトと路面を走る電車で多摩川の砂利も運びましたのでジャリデンとも呼ばれました。
石油ランプを使っていた沿線の家々には電灯もつくようになりました。電気を使う生活の始まりです。
用賀駅には電車の折返所もでき、駅前にあった用賀梅林には赤坂や青山方面から子ども達が遠足に来ました。駅の待合室は子ども達のたまり場となり、近くの子ども達もよく遊びました。
数々の出会い、別れの想い出を綴りながら、昭和44年(1969)5月、玉川電車の廃止にともない、玉電用賀駅はその姿を消しました。』
(『 』は「てくたくぶっく」からの引用)

Dscf1294 Dscf1295石柱は、倉庫のような建物の脇に立っています。
ほとんど自転車置場と化しているようなところですが、この建物、実は東急田園都市線の施設です。玉電用賀駅はなくなりましたが、その跡地は田園都市線を維持するための施設として立派にその役目を果たしています。ただ、保線区の関係でしょうか、管轄は三軒茶屋駅のようです。

「玉電は砂利運搬車の後ろに客車を繋いで走り、用賀~三軒茶屋間7銭、用賀~渋谷間は片道13銭の運賃であった。この当時、米一俵が9円の頃であったので、高価なものと感じ、歩いていく人が多かったという。(用賀ナビ)」といわれても、今の私たちにとってはちょっとピンときませんが、米1Kgが15銭と考えると確かに高い。400~500円といったところでしょうか。

玉電については「さっしいのホームページ・ぽこぺん」に昔の写真とともに詳しく紹介されています。モノクロームの世界の中に玉電に対する愛着が感じられるサイトです。

昭和14年の地図をみると、用賀駅の北側は大山街道が通り商店街も形成されて賑わいを見せているようですが、南側は畑や林がゆるやかな傾斜をつくり谷沢川の方まで続いていて長閑な景色だったようです。

Y01玉電用賀駅跡

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用賀02 真福寺

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Dscf1307_1 石柱は向かって左の壁の植え込みに埋もれています。
拓本は取れますが、真福寺の文字は見えません(^-^;
この葉っぱは根性があり、手で退かして写真を撮ろうと思ったのですが、びくともしませんでした。

『このお寺は今から約400年前に創建されたといわれ、大山道に山門があって赤くぬってあったので赤門寺とも呼ばれていました。ご本尊は大日如来という仏さまで、開山は宋円和尚、開基した人は飯田図書という人です。
明治時代、京西小学校が台風で壊れてしまった時、本堂が仮校舎として使われました。
今、新しくなった山門を入ると左側に庚申堂、太子堂、法教上人碑、芭蕉の句碑、六地蔵、大日堂などが並んでいますが、みな元の場所から移されてきたものです。
昭和28年に本堂の大修理が行われ、庫裏も鉄筋コンクリート造りに建て替えられました。』

Dscf1309Dscf13106_1 右側が太子堂で聖徳太子様の石造が祭られています。
左側が庚申堂です。元々は大山道沿いの三差路にあって道標となっていたそうです。芭蕉が大山街道を通って用賀に来た時に残した「みちのべの木槿(むくげ)は馬に喰われけり」の句碑もあります。

 

「真福寺の山号 瑜伽山(ゆがさん)の「瑜伽」が「用賀」に転じたとする説がある(「瑜伽」はサンスクリット語「ヨーガ」の音訳)。しかし、真福寺の山号は昭和二十年代まで実相山であった。ほかに確たる資料もなく、裏付けのできる説ではない。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」だそうですが、鎌倉初期に瑜伽の道場があったという説(『世田谷の地名』)があるのは事実のようですし、このお寺の門前町(といっても小規模なものでしょうが)から用賀の街がスタートしたことも確かなようです。

西日が強く、私のデジカメでは山門の赤色がよく出ないので残念ですが、鮮やかな赤色が目を引くお寺です。

Y02 真福寺

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用賀03 火の見やぐら跡

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『大正2年(1913)、玉川村の中に6つの消防組が編成されることになり、用賀は、その第一部消防組を受け持ち、約40名の若者が参加しました。
そして、ここに消防器具置場が作られ、木造の火の見やぐらが建てられました。火の見やぐらは、後に高さ15mもある鉄製のやぐらに建て替えられました、昭和10年(1935)、用賀に世田谷消防署の派出所が出来る事となって、をの役目を終えました。その後、何年かたってこの火の見やぐらは解体され、三鷹の方に移設されたとのことです』

Dscf1292 「15mある」ということですが、今や周りにはマンションが立ち並び、さらにその向こうには地上29階、高さ120mの世田谷ビジネススクウェアがそびえ立っています(ちなみに屋上にはFM世田谷の送信アンテナがあります)。


Y03 火の見やぐら

Dscf1384 ところで、まったく「てくたく」や用賀とも関係ないのですが、火の見やぐらというと、ぜひともご紹介したいのが、成城学園の駅のすぐ隣にあるこの火の見やぐら。周りをマンションに取り囲まれ、まったく実用には供していないと思われ、いつ取り壊されるかと心配しているのですが、消防倉庫や自治会館を併設しているおかげで、本当に駅前にも関わらず未だに残っています。ここだけ昭和30年代の成城が残っています。

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用賀04 田中橋

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『むかし、この谷沢川をはさんで両側一帯は田んぼでした。村人はこの橋を、田の中の橋だから『田中橋』と呼ぶようになりました。あまり大きくはありませんが、非常に大切な橋でした。この橋をわたる道路は厚木(大山)街道といい、神奈川の厚木まで通じています。大山の阿夫利神社は雨の神様が祀ってありますが、昔は信心深い人が多かったので、明治の頃までここを通って下町、山の手から大山詣に行きました。また、神奈川の人も牛車を曳いて、農作物を運ぶために利用しました。
約90年前の明治40年(1907)開通した玉川電車は路面電車で通行人と一緒にこの橋を渡りましたが、現在、新玉川線はトンネルでこの橋の下を通っています。昭和46年には首都高速3号線が開通し、川をまたいで高い所を車が通るようになり、どこに橋があるのかわかりにくくなってしまいました。』

Yougas14map昭和14年の地図をみると、だいぶ人家が沿道に増えたとはいえ、大山街道の田中橋の周囲には田んぼが残っています。現在は田んぼどころか、空き地さえ残っていないような状態で、ビルや住宅がひしめいています。

Dscf1289 確かに谷沢川の上を通る首都高のおかげで、大山街道を車で走ってくると、そこが川であることなど分からずに、首都高高架下の自転車置場くらいに思って通り過ぎてしまうくらいです。でも、暗渠にはせずに流れを残しで公園化しているのがせめてもの救いです。

Dscf1287 田中橋の石柱は、橋のところではなく、交差点の角のメガネ屋の建物のそばにあり、ちょっと分かりずらいです。



Y04 田中橋

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用賀05 延命地蔵

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『相模に向かう大山道は、ここから瀬田に向かって二股に分かれます。右の道を行くと慈眼寺前の坂道、左の道を行くと行善寺、法徳寺のそばを通る坂道、いずれの道も二子の渡しにつながっていました。
この地蔵尊は安永6年(1777)用賀村の女念仏講中の人々によって建てられたもので、前面には法界万霊という文字が刻んであり、この道を通る人の安全を願い、無縁仏の供養をしたものと思われます。
今も、この地蔵信仰をしている人たちが「開眼延命地蔵講」という団体を作り、毎年5月24日に地蔵祭りを行い、供養祈願をしています。』

Dscf1265 右側のほうが古い大山道で、古くからの二子玉川の商店街を抜けて多摩川に突き当たります。左側の道は、途中で環状8号線に分断されながらも行善寺坂を下り、次太夫堀の調布橋を渡り多摩川の二子の渡しへ続いています。こちらの道は江戸時代になってから作られた道なので江戸道と呼ばれています。
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このお地蔵さんも多くの旅人を見守りながら、この分れを守ってきたのだと思います。馬や駕籠が自動車に変わった今も、祈願の石柱の「交通安全」の 文字に見えるように霊験あらたかなのでしょう。

Y05 延命地蔵

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用賀06 旧京西小学校跡

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『明治12年(1879)12月、この場所に京西小学校が創立されました。瀬田と用賀の村境で、両方の村の子ども達が通うのに便利だと、みんなが相談して決めました。
はじめ、先生は2人、児童は66名でした。学校の名前は、用賀村の貿易商鈴木虎之助さんの知り合いで伊藤博文(後に日本の総理大臣になった人)という人が、東京の西に出来た学校ということで『京西』と命名しました。
その後、明治、大正、昭和と児童数も年毎に増え、校舎も2階建へと建替えが行われましたが、昭和14年2月、今の用賀4丁目の新校地に新校舎が完成し、懐かしい旧校舎に分れを告げ、全校児童と職員の手による三日がかりの引越しが行われました』

Dscf1267 という130年近い歴史のある小学校です。なんってたって伊藤博文ゆかりの小学校です。この小学校のホームページがまたスゴイ! そんじょそこらの大学でも負けるくらいの格式があります(^-^) 跡地は団地や区民センターに変わっていますが、「田中橋」で紹介した昔の地図をみるとまさしく瀬田と用賀の真ん中というのが分かります。
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今は用賀4丁目に移転しましたが、こじんまりとした学校ながらも元気な子供の声が響いていて、ホームページにある「京西さくら組」の歌詞そのままの学校です。私の息子・娘は逆に世田谷で一番若い小学校でしたので、こんな歴史のある学校は羨ましくもあります。

Y06 旧京西小学校跡

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用賀07 向大橋

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『むかし、この辺り一帯は用賀でも地形が平らな所でしたので、向こうにある原っぱという事でしょうか、村の人達は向原(むかいはら)とか向(むかい)という地名で呼んでいました。
そして、谷沢川はこの向原まで流れてくると水量も多くなり川幅も広がりました。そこで、村人は、いくつかの橋をかけましたが、その一つが『向大橋』です。木の橋でしたので、大水が出た時などは流されてしまい、みんなで作り直しました。向大橋は人々の生活や農作業のため、とても大切な橋でした。Dscf1283
現在、この橋の横には西用賀通りの地下深くに作られた雨水貯水溝トンネルの縦坑とポンプ設備があり、水害対策のほか谷沢川の水量確保や浄化に活躍しています。
今、谷沢川の上流はほとんど川の面影は残っていませんが、ここから下流は、春、水辺に桜が美しい花を咲かせます。』

Dscf1281 「向大橋」の石柱は首都高下の公園の隅っこにあり、現在の国道246号にかかる向大橋の傍にあるわけではありませんので、ちょっと分かりづらいです。左の写真の木の下に石柱が見えるかと思います。木の左側には地下貯水溝のポンプ施設があります。右側の写真の公園脇の建物でDscf1282す。なぜこのような設備が必要かというと、谷沢川は一見平らな用賀地区に降る雨が一気に流れ込む地形となっていて、ひとたび大雨が降れば浸水の危険が大きく、野川、仙川、丸子川とともに常時監視されているくらいなのです。先日も、天端(てんぱ:護岸・堤防の一番高いところ)までであと30Cmというところまで水がきたようです。

谷沢川を下っていくと等々力渓谷となり、多摩川に注ぎます。あれだけの渓谷を削り取るくらいの水量が流れることがあると想像してみれば、分かっていただけるかと思います。

Y08 向大橋

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用賀09 八幡社跡

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『この高台一帯は、昔、八幡山といわれていた所です。そして、この西側は宇佐前、東側は宇佐後と呼ばれていました。それは、明治時代の終わり頃まで、ここに八幡様を祀った社があったところだからです。八幡様は九州大分県の宇佐八幡神社が本元で、しだいに全国に伝わった神様です。そのため、八幡とか宇佐という地名はあちこちにあります。
Dscf1273ここの八幡様は鎌倉の鶴岡八幡宮より遷宮されたといわれますが、明治41年(1908)、他の神様と一緒に今の用賀神社に祀られることになって、社も鳥居も取り壊されてしまいました。その後、ここには八幡山の森だけが残りました。』

Yougam14map ということで、今の現地はこんもりとした森が残るだけで面影もなにもありません。

明治14年の地図をみると八幡社が記載されています。裏手の丘は雑木林、周りの斜面は畑、前の低地は一面の田んぼ、周りに人家はなったく無しという光景です。住宅街びっしりの今の様子からはなかなか想像できませんが、かなりのどかな風景だったようです。

Y09 八幡社跡

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用賀08 向稲荷

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『この稲荷は、京都伏見稲荷の分霊を祀り、通称正一位向稲荷といいます。用賀字向の住民が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛祈願のため創建したもので、その年代は不明ですが、古文書には天保3年(1832)に初午祭が行われたとの記録がありますから、相当古くに創建されたと考えられます。この初午祭は毎年続けられており、現在は講中の子孫約20名が慣例に従い、2月の第二日曜日に行っています。当日奉納された菓子、果物などは参詣に訪れた子ども達に配られ、成長の喜びを祈願します。
現在の社は明治34年(1901)に講員が資金を出し合い、用賀の宮大工樽屋(棟梁、故高橋綱吉氏)に発注して建築したもので、その費用は50円だったと記録されています。』

Dscf1269 Dscf1271 住宅街のなかにひっそりと鎮座するかわいいお稲荷さんです。えっ、こんなところ、と思うくらいに住宅街に溶け込んでいます。
お稲荷さんの場合、狛犬ではなく、狛狐(?)。今までじっくり見たことがありません。良く見ると、向かって左側の狐さんは玉を足で押さえていて、右側の狐さんは子狐が足元にいるのですね。今の1対の狐さんたちの先代なのでしょうか、もう1対の狐さんたちが社の前にいます。

ちょっとした路地のお稲荷さんですので、近隣の方のご迷惑にならないように静かに「てくたく」しましょう。

Y08 向稲荷

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