用賀00 「用賀・馬事公苑」コース

Hyoushiyouga 用賀・上用賀と玉川台の一部を範囲とする「用賀・馬事公苑」コースのスタートは東急田園都市線「用賀」駅となります。

石柱は全部で33ヶ所あります。2006年10月9日に取材しましたが、その時点ですべての石柱は存在します。

        「てくたくまっぷ」はこちら

1.玉電用賀駅跡 17.庚申塔
2.真福寺 18.第六天様跡
3.火の見やぐら跡 19.旧玉川村村長邸
4.田中橋 20.旧用賀名主邸
5.延命地蔵 21.本村稲荷
6.旧京西小学校跡 22.天神溜池跡
7.向大橋 23.衛生材料廠跡
8.向稲荷 24.覆馬場
9.八幡社跡 25.北見橋跡
10.東条英機邸跡 26.馬事公苑
11.法教上人塚跡 27.東京農大農場跡
12.戸越農園跡 28.谷沢川湧水池跡
13.用賀神社 29.三峰神社
14.大山道追分 30.砧パークブリッジ
15.水道みち 31.洗い場
16.無量寺 32.用賀いらか道
  33.中丸地蔵

ところで、「用賀」という地名は、鎌倉時代にヨガの道場が近くにあったからという説があるのをご存知ですか。ヨガ→ヨーガ、あまりにありげな展開です(^-^;

昭和のはじめ、現在の馬事公苑の敷地を帝国競馬協会へ売却した資金で、整然と碁盤の目のような区画整理が行われ、今は落ち着いた住宅街となっている用賀地区ですが、旧大山街道の道筋など昔からの道も残っています。「てくたく」しながら、そんな区画整理される以前の面影を思い起してみてはいかがでしょうか。

2006年10月9日

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀01 玉電用賀駅跡

Dscf1293

『明治40年(1907)4月、この道に玉川電車(タマデン)が通りました。ガタゴトと路面を走る電車で多摩川の砂利も運びましたのでジャリデンとも呼ばれました。
石油ランプを使っていた沿線の家々には電灯もつくようになりました。電気を使う生活の始まりです。
用賀駅には電車の折返所もでき、駅前にあった用賀梅林には赤坂や青山方面から子ども達が遠足に来ました。駅の待合室は子ども達のたまり場となり、近くの子ども達もよく遊びました。
数々の出会い、別れの想い出を綴りながら、昭和44年(1969)5月、玉川電車の廃止にともない、玉電用賀駅はその姿を消しました。』
(『 』は「てくたくぶっく」からの引用)

Dscf1294 Dscf1295石柱は、倉庫のような建物の脇に立っています。
ほとんど自転車置場と化しているようなところですが、この建物、実は東急田園都市線の施設です。玉電用賀駅はなくなりましたが、その跡地は田園都市線を維持するための施設として立派にその役目を果たしています。ただ、保線区の関係でしょうか、管轄は三軒茶屋駅のようです。

「玉電は砂利運搬車の後ろに客車を繋いで走り、用賀~三軒茶屋間7銭、用賀~渋谷間は片道13銭の運賃であった。この当時、米一俵が9円の頃であったので、高価なものと感じ、歩いていく人が多かったという。(用賀ナビ)」といわれても、今の私たちにとってはちょっとピンときませんが、米1Kgが15銭と考えると確かに高い。400~500円といったところでしょうか。

玉電については「さっしいのホームページ・ぽこぺん」に昔の写真とともに詳しく紹介されています。モノクロームの世界の中に玉電に対する愛着が感じられるサイトです。

昭和14年の地図をみると、用賀駅の北側は大山街道が通り商店街も形成されて賑わいを見せているようですが、南側は畑や林がゆるやかな傾斜をつくり谷沢川の方まで続いていて長閑な景色だったようです。

Y01玉電用賀駅跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀02 真福寺

Dscf1308

Dscf1307_1 石柱は向かって左の壁の植え込みに埋もれています。
拓本は取れますが、真福寺の文字は見えません(^-^;
この葉っぱは根性があり、手で退かして写真を撮ろうと思ったのですが、びくともしませんでした。

『このお寺は今から約400年前に創建されたといわれ、大山道に山門があって赤くぬってあったので赤門寺とも呼ばれていました。ご本尊は大日如来という仏さまで、開山は宋円和尚、開基した人は飯田図書という人です。
明治時代、京西小学校が台風で壊れてしまった時、本堂が仮校舎として使われました。
今、新しくなった山門を入ると左側に庚申堂、太子堂、法教上人碑、芭蕉の句碑、六地蔵、大日堂などが並んでいますが、みな元の場所から移されてきたものです。
昭和28年に本堂の大修理が行われ、庫裏も鉄筋コンクリート造りに建て替えられました。』

Dscf1309Dscf13106_1 右側が太子堂で聖徳太子様の石造が祭られています。
左側が庚申堂です。元々は大山道沿いの三差路にあって道標となっていたそうです。芭蕉が大山街道を通って用賀に来た時に残した「みちのべの木槿(むくげ)は馬に喰われけり」の句碑もあります。

「真福寺の山号 瑜伽山(ゆがさん)の「瑜伽」が「用賀」に転じたとする説がある(「瑜伽」はサンスクリット語「ヨーガ」の音訳)。しかし、真福寺の山号は昭和二十年代まで実相山であった。ほかに確たる資料もなく、裏付けのできる説ではない。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」だそうですが、鎌倉初期にヨガの道場があったことは事実のようですし、このお寺の門前町(といっても小規模なものでしょうが)から用賀の街がスタートしたことも確かなようです。

西日が強く、私のデジカメでは山門の赤色がよく出ないので残念ですが、鮮やかな赤色が目を引くお寺です。

Y02 真福寺

| | コメント (1) | トラックバック (0)

用賀03 火の見やぐら跡

Dscf1291

『大正2年(1913)、玉川村の中に6つの消防組が編成されることになり、用賀は、その第一部消防組を受け持ち、約40名の若者が参加しました。
そして、ここに消防器具置場が作られ、木造の火の見やぐらが建てられました。火の見やぐらは、後に高さ15mもある鉄製のやぐらに建て替えられました、昭和10年(1935)、用賀に世田谷消防署の派出所が出来る事となって、をの役目を終えました。その後、何年かたってこの火の見やぐらは解体され、三鷹の方に移設されたとのことです』

Dscf1292 「15mある」ということですが、今や周りにはマンションが立ち並び、さらにその向こうには地上29階、高さ120mの世田谷ビジネススクウェアがそびえ立っています(ちなみに屋上にはFM世田谷の送信アンテナがあります)。


Y03 火の見やぐら

Dscf1384 ところで、まったく「てくたく」や用賀とも関係ないのですが、火の見やぐらというと、ぜひともご紹介したいのが、成城学園の駅のすぐ隣にあるこの火の見やぐら。周りをマンションに取り囲まれ、まったく実用には供していないと思われ、いつ取り壊されるかと心配しているのですが、消防倉庫や自治会館を併設しているおかげで、本当に駅前にも関わらず未だに残っています。ここだけ昭和30年代の成城が残っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀04 田中橋

Dscf1290

『むかし、この谷沢川をはさんで両側一帯は田んぼでした。村人はこの橋を、田の中の橋だから『田中橋』と呼ぶようになりました。あまり大きくはありませんが、非常に大切な橋でした。この橋をわたる道路は厚木(大山)街道といい、神奈川の厚木まで通じています。大山の阿夫利神社は雨の神様が祀ってありますが、昔は信心深い人が多かったので、明治の頃までここを通って下町、山の手から大山詣に行きました。また、神奈川の人も牛車を曳いて、農作物を運ぶために利用しました。
約90年前の明治40年(1907)開通した玉川電車は路面電車で通行人と一緒にこの橋を渡りましたが、現在、新玉川線はトンネルでこの橋の下を通っています。昭和46年には首都高速3号線が開通し、川をまたいで高い所を車が通るようになり、どこに橋があるのかわかりにくくなってしまいました。』

Yougas14map昭和14年の地図をみると、だいぶ人家が沿道に増えたとはいえ、大山街道の田中橋の周囲には田んぼが残っています。現在は田んぼどころか、空き地さえ残っていないような状態で、ビルや住宅がひしめいています。

Dscf1289 確かに谷沢川の上を通る首都高のおかげで、大山街道を車で走ってくると、そこが川であることなど分からずに、首都高高架下の自転車置場くらいに思って通り過ぎてしまうくらいです。でも、暗渠にはせずに流れを残しで公園化しているのがせめてもの救いです。

Dscf1287 田中橋の石柱は、橋のところではなく、交差点の角のメガネ屋の建物のそばにあり、ちょっと分かりずらいです。



Y04 田中橋

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀05 延命地蔵

Dscf1262

『相模に向かう大山道は、ここから瀬田に向かって二股に分かれます。右の道を行くと慈眼寺前の坂道、左の道を行くと行善寺、法徳寺のそばを通る坂道、いずれの道も二子の渡しにつながっていました。
この地蔵尊は安永6年(1777)用賀村の女念仏講中の人々によって建てられたもので、前面には法界万霊という文字が刻んであり、この道を通る人の安全を願い、無縁仏の供養をしたものと思われます。
今も、この地蔵信仰をしている人たちが「開眼延命地蔵講」という団体を作り、毎年5月24日に地蔵祭りを行い、供養祈願をしています。』

Dscf1265 右側のほうが古い大山道で、古くからの二子玉川の商店街を抜けて多摩川に突き当たります。左側の道は、途中で環状8号線に分断されながらも行善寺坂を下り、次太夫堀の調布橋を渡り多摩川の二子の渡しへ続いています。こちらの道は江戸時代になってから作られた道なので江戸道と呼ばれています。
Dscf1263_1
このお地蔵さんも多くの旅人を見守りながら、この分れを守ってきたのだと思います。馬や駕籠が自動車に変わった今も、祈願の石柱の「交通安全」の 文字に見えるように霊験あらたかなのでしょう。

Y05 延命地蔵

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀06 旧京西小学校跡

Dscf1266

『明治12年(1879)12月、この場所に京西小学校が創立されました。瀬田と用賀の村境で、両方の村の子ども達が通うのに便利だと、みんなが相談して決めました。
はじめ、先生は2人、児童は66名でした。学校の名前は、用賀村の貿易商鈴木虎之助さんの知り合いで伊藤博文(後に日本の総理大臣になった人)という人が、東京の西に出来た学校ということで『京西』と命名しました。
その後、明治、大正、昭和と児童数も年毎に増え、校舎も2階建へと建替えが行われましたが、昭和14年2月、今の用賀4丁目の新校地に新校舎が完成し、懐かしい旧校舎に分れを告げ、全校児童と職員の手による三日がかりの引越しが行われました』

Dscf1267 という130年近い歴史のある小学校です。なんってたって伊藤博文ゆかりの小学校です。この小学校のホームページがまたスゴイ! そんじょそこらの大学でも負けるくらいの格式があります(^-^) 跡地は団地や区民センターに変わっていますが、「田中橋」で紹介した昔の地図をみるとまさしく瀬田と用賀の真ん中というのが分かります。
Dscf1319
今は用賀4丁目に移転しましたが、こじんまりとした学校ながらも元気な子供の声が響いていて、ホームページにある「京西さくら組」の歌詞そのままの学校です。私の息子・娘は逆に世田谷で一番若い小学校でしたので、こんな歴史のある学校は羨ましくもあります。

Y06 旧京西小学校跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀07 向大橋

Dscf1280

『むかし、この辺り一帯は用賀でも地形が平らな所でしたので、向こうにある原っぱという事でしょうか、村の人達は向原(むかいはら)とか向(むかい)という地名で呼んでいました。
そして、谷沢川はこの向原まで流れてくると水量も多くなり川幅も広がりました。そこで、村人は、いくつかの橋をかけましたが、その一つが『向大橋』です。木の橋でしたので、大水が出た時などは流されてしまい、みんなで作り直しました。向大橋は人々の生活や農作業のため、とても大切な橋でした。Dscf1283
現在、この橋の横には西用賀通りの地下深くに作られた雨水貯水溝トンネルの縦坑とポンプ設備があり、水害対策のほか谷沢川の水量確保や浄化に活躍しています。
今、谷沢川の上流はほとんど川の面影は残っていませんが、ここから下流は、春、水辺に桜が美しい花を咲かせます。』

Dscf1281 「向大橋」の石柱は首都高下の公園の隅っこにあり、現在の国道246号にかかる向大橋の傍にあるわけではありませんので、ちょっと分かりづらいです。左の写真の木の下に石柱が見えるかと思います。木の左側には地下貯水溝のポンプ施設があります。右側の写真の公園脇の建物でDscf1282す。なぜこのような設備が必要かというと、谷沢川は一見平らな用賀地区に降る雨が一気に流れ込む地形となっていて、ひとたび大雨が降れば浸水の危険が大きく、野川、仙川、丸子川とともに常時監視されているくらいなのです。先日も、天端(てんぱ:護岸・堤防の一番高いところ)までであと30Cmというところまで水がきたようです。

谷沢川を下っていくと等々力渓谷となり、多摩川に注ぎます。あれだけの渓谷を削り取るくらいの水量が流れることがあると想像してみれば、分かっていただけるかと思います。

Y08 向大橋

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀09 八幡社跡

Dscf1272

『この高台一帯は、昔、八幡山といわれていた所です。そして、この西側は宇佐前、東側は宇佐後と呼ばれていました。それは、明治時代の終わり頃まで、ここに八幡様を祀った社があったところだからです。八幡様は九州大分県の宇佐八幡神社が本元で、しだいに全国に伝わった神様です。そのため、八幡とか宇佐という地名はあちこちにあります。
Dscf1273ここの八幡様は鎌倉の鶴岡八幡宮より遷宮されたといわれますが、明治41年(1908)、他の神様と一緒に今の用賀神社に祀られることになって、社も鳥居も取り壊されてしまいました。その後、ここには八幡山の森だけが残りました。』

Yougam14map ということで、今の現地はこんもりとした森が残るだけで面影もなにもありません。

明治14年の地図をみると八幡社が記載されています。裏手の丘は雑木林、周りの斜面は畑、前の低地は一面の田んぼ、周りに人家はなったく無しという光景です。住宅街びっしりの今の様子からはなかなか想像できませんが、かなりのどかな風景だったようです。

Y09 八幡社跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀08 向稲荷

Dscf1268

『この稲荷は、京都伏見稲荷の分霊を祀り、通称正一位向稲荷といいます。用賀字向の住民が家内安全、五穀豊穣、商売繁盛祈願のため創建したもので、その年代は不明ですが、古文書には天保3年(1832)に初午祭が行われたとの記録がありますから、相当古くに創建されたと考えられます。この初午祭は毎年続けられており、現在は講中の子孫約20名が慣例に従い、2月の第二日曜日に行っています。当日奉納された菓子、果物などは参詣に訪れた子ども達に配られ、成長の喜びを祈願します。
現在の社は明治34年(1901)に講員が資金を出し合い、用賀の宮大工樽屋(棟梁、故高橋綱吉氏)に発注して建築したもので、その費用は50円だったと記録されています。』

Dscf1269 Dscf1271 住宅街のなかにひっそりと鎮座するかわいいお稲荷さんです。えっ、こんなところ、と思うくらいに住宅街に溶け込んでいます。
お稲荷さんの場合、狛犬ではなく、狛狐(?)。今までじっくり見たことがありません。良く見ると、向かって左側の狐さんは玉を足で押さえていて、右側の狐さんは子狐が足元にいるのですね。今の1対の狐さんたちの先代なのでしょうか、もう1対の狐さんたちが社の前にいます。

ちょっとした路地のお稲荷さんですので、近隣の方のご迷惑にならないように静かに「てくたく」しましょう。

Y08 向稲荷

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀10 東条英機邸跡

Dscf1274

『ここは、太平洋戦争開戦(昭和16年12月8日)の時、内閣の最高責任者であった東条英機首相の私邸跡です。
登場首相は陸軍大臣も兼務していましたので、首相官邸や陸軍大臣の官邸で生活する事が多かったのですが、日曜日など、家族と共にここの私邸で過ごしました。
昭和19年7月、首相を辞めてからは用賀の家での生活が中心で、庭で野菜づくりなどをしたとの事です。
そして、戦争が終わり、東条元首相は東京裁判の結果、昭和23年12月、65歳の生涯を終えました。』

Dscf1275 「てくたくぶっく」には書かれていませんが、敗戦後の1945(昭和20)年9月11日東条英機がGHQによって逮捕される寸前にピストルで自殺、未遂に終わったのがまさしくこの場所です。その後、極東国際軍事裁判A級戦犯として起訴され、1948(昭和23)年12月23日、絞首刑に処せられたのはご存知の通りです。靖国合祀、憲法9条、核兵器、海外派兵...「平和」を考えさせられる場所のひとつがこんなに身近なところにあるのです。Dscf1276

なお、私邸跡は現在、立正佼成会の世田谷教会となっていますので、勝手に敷地には入らないようにしましょう。


Y10 東条英機邸跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀11 法教上人塚跡

Dscf1277

『ここは、今から300年以上も昔、寛文4年(1664)に亡くなった『お上人様』のお墓(塚)があった所です。このお上人様は人々の信望がとても厚かったようですが、不思議なことにその名前も出身地も伝わっていません。いい伝えでは、その塚にお参りすると百日咳が治るとの事で、村人は治った時には、お礼に甘酒を供えました。そして、近所の子ども達は、その甘酒が温かいうちに、こっそり飲んでしまう事もあったようです。
今、その塚もなくなってしまい、お上人様を伝える石碑などは真福寺境内に移されて建っています。』

Dscf1279 周りをマンションに囲まれた小さな公園に石碑は建っています。「てくたくまっぷ」の印がちょっとずれていますので、気をつけてください。下の「ちず窓」の位置を確認しておくことをオススメします。

Dscf13101
お上人様こと法教上人の碑は「2.真福寺」の境内にありますので、芭蕉句碑や庚申堂・太子堂と一緒にぜひ見てください。私が訪れたときは薄暮でしたので、彫られた文面はよく読めませんでしたが、お上人様の面影をしのぶ線画が彫られています。

Dscf13103_3

Y11 法教上人塚跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀12 戸越農園跡

Dscf1299_1

『ここは、昔、用賀有数の大地主『ぶしちさま』(正式の名は飯田武七)の畑でしたが、大山街道沿いで手広く生糸工場を経営していた広瀬商店が、後にこの土地を購入し、ミニゴルフ場を開業した所です。
そして昭和9年(1934)には、品川区戸越にあった三井家の戸越農園が、ここに移転して来ました。
三井戸越農園は、用賀戸越農園、第一園芸戸越農園と名称は変わりましたが、昭和46年まで営業を続け、日本の園芸業界発展のため、大きな役割を果たしました。
その後、平成5年、今度は港区の戸板女子学園がここに引越しをして来て、今、戸越農園の跡地はモダンなキャンパスに生まれ変わっています。』

Dscf1300_1 三井財閥が、海外からのお客様の接待のために世界から草花を集め栽培法を研究したのが三井戸越農園。用賀に引っ越してからも洋ランやカーネーションなどの研究成果が受け継がれ、現在に至るまで連綿と続いています。現在は、戸板女子学園の女子中学校と女子高校がこの地に建っています。

Y12 戸越農園跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀13 用賀神社

Dscf1296

『この神社は 以前 神明社といい、その創立の年代は不明ですが、明治41年(1908)に一緒に祀った八幡社は、天正年間に鎌倉の鶴岡八幡宮より分霊を迎えたといわれています。この明治41年の合祀の際には、上用賀にあった天神社も合わせて祀られました。
祭神は天照皇大神、応神天皇、菅原道真ほか数柱です。菅原道真は学問の神様として有名ですが、ここ用賀神社にも受験の人達のお参りがあります。
大祭は、以前9月25日でしたが、現在は10月9日に宵宮、10月10日に大祭が盛大に行われています。また、神田明神より移入したと伝えられる獅子頭一対があり、昔は秋の大祭に五穀豊穣、悪疫退散を祈って若衆にかつがれ、村内を練り歩いたと伝えられています。』

Dscf1297

お祭りの写真などは「用賀ネット」をご覧ください。

Y13 用賀神社

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀14 大山道追分

Dscf1301

『江戸時代、相模の大山詣での人々が、毎日のように用賀を通っていた頃、この前の道に高さ1m20Cmくらいの道しるべの石塔が建っていました。正面には庚申塔という字が刻んであり、右は江戸道、左は世田谷四谷道と書いてありました。建てられたのは文政10年(1827)で、当時この三叉路の近くには、旅館や酒店、料理屋などいろいろな店が軒を並べ、用賀の中心で、とても賑やかな所でした。
 今、当時の道しるべであった庚申塔そのものは、世田谷区立郷土資料館の中庭に移され展示公開されています。』

Dscf1302 ところどころに昔の面影を残すお店がある界隈です。右の江戸道は東急新玉川線(田園都市線)の経路とほぼ同じように渋谷に向かいます。左の世田谷四谷道のほうが古い道筋で、途中で登戸道と合流し、現在の世田谷のボロ市通りから世田谷通りとなり、三軒茶屋で江戸道と再び一緒になります。

左の江戸道をちょっと登ったところには大正12年から手打ちうどん一筋の商いを続けてきた「高橋」という木造平屋の風情のあるうどん屋さんがあったそうですが、今は影も形もありません。

Y14 大山道追分

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀15 水道みち

Dscf1305

『この道は、大正時代、渋谷方面へ水道を引くため、水道管を埋めた場所で、はじめは、人や車の通る道ではありませんでした。水道は多摩川の水を砧で汲み上げ、岡本、用賀、桜新町を経て駒沢の給水塔に一度溜め、高さを利用して渋谷の方へ送るという方式です。
 水道管を埋めた上は車など重いものが通れないよう、ところどころに石の杭が立ててありましたが、ここを通ると近道になりますので、人々は次第に利用するようになります。そして、いつからか、みんなが「水道みち」と呼ぶようになりました。今、水道みちは道幅も広がりアスファルト舗装もされて便利な道になっています。』

Dscf1306 鎌田の駒沢大学のグランドの隣の砧下浄水場で汲み上げられた多摩川の伏流水は、渋谷地域の水道水として、野川水道橋で野川を越え、岡本の民家園のあたりで岡本隧道(民家園のなかにひっそりとトンネルが残っています)を穿ち、用賀に向かいます。この水道や駒沢の水道塔の詳細はこちらのサイトが詳しいので、ぜひご覧ください。

地図で見ると水道みちの道筋がわかります。

Y15 水道みち

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀16 無量寺

Dscf1311

『このお寺は、用賀の観音さまという名前で呼ばれる事もありますが、今から約400年位前、光蓮社明誉寿広和尚が開山したお寺です。ご本尊は阿弥陀さまで、本堂脇の観音堂には木彫りの十一面観世音菩薩が安置されています。この観音さまは用賀の住人高橋六右衛門尉直住という人が夢のお告げにより、このお寺に納めたとのいい伝えが残っており、用賀村の人達はもとより、遠く阿佐ヶ谷、高円寺、調布の方の人々からも信仰されていたとの事です。
 お寺の境内には木が多く、本堂前の大銀杏は樹齢百年を超え、遠くから眺めることができます。そして、このお寺の風景は、昭和59年選定の世田谷百景の一つに選ばれています。』

Dscf1312 Dscf1316 この観音さまは、品川の浜で漁師の網に揚げられて、このお寺に納められたという言い伝えがあるそうで、12年に一回、午の年にご開帳されるということです。

秋にはきれいに黄葉するのでしょうね。

Dscf1317

Y16 無量寺


| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀17 庚申塔

Dscf1320

『この庚申塔は元文5年(1740)、庚申(かのえさる)の年に建てられたもので、正面には青面金剛像、その右には日像、雄鶏像、左には月像、雌鶏像が画かれています。そして、青面金剛像の下には鬼と三匹の猿(見ざる、聞かざる、言わざる)が彫ってあります。
 庚申さまの信仰は中国の道教の説から始まったといわれていますが、この近くの人たちは、病気にならないよう、幸せになるようにと、この庚申さまを大切に守ってきました。また、庚申塔は用賀村の中で本村(ほんむら)や中丸(なかまる)、上(かみ)の方に行く分かれ道に建てられ道しるべの役目もしていたようです。』

ということですが、今は区画整理された碁盤目の道の角に収まっています。昔の地図を見ると、畑と田んぼの境目の分かれ道に建てられていたようですが、今は面影もなにもありません。

Dscf1321

Y17 庚申塔

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀18 第六天様跡

Dscf1334_1

Dscf1335

Y18 第六天様跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀19 旧玉川村村長邸

Dscf1336

Dscf1337

Y19 旧玉川村村長邸

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀20 旧用賀名主邸

Dscf1340

Dscf1341

Y20 旧用賀名主邸

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀21 本村稲荷

Dscf1344

Dscf1345

右隣には御嶽神社が祀られています。
Dscf1346

Y21 本村稲荷

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀22 天神溜池跡

Dscf1347

Dscf1348

Dscf1350  Dscf1349

Y22 天神溜池跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀23 衛生材料廠跡

Dscf1351


Dscf1354

Dscf1352_1  Dscf1353

Y23 衛生材料廠跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀24 覆馬場

Dscf1355

Dscf1356

Dscf1357

Dscf1358

Y24 覆馬場

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀25 北見橋跡

Dscf1360

Dscf1361

Y25 北見橋跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀26 馬事公苑

Dscf1363

Dscf1364

Dscf1365  Dscf1366

Dscf1367

Y26 馬事公苑

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀27 東京農大農場跡

Dscf1368

Dscf1369

Y27 東京農大農場跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀28 谷沢川湧水池跡

Dscf1375

Dscf1376

Dscf1378

Y28 谷沢川湧水池跡

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀29 三峯神社

Dscf1371

Dscf1372

Dscf1373

Y29 三峯神社

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀30 砧パークブリッジ

Dscf1330

Dscf1333

Dscf1332

Y30 砧パークブリッジ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀31 洗い場

Dscf1328

Dscf1329

Y31 洗い場

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀32 用賀いらか道

Dscf1322

Dscf1323

Dscf1324

Dscf1409

Y32 用賀いらか道

| | コメント (0) | トラックバック (0)

用賀33 中丸地蔵

Dscf1325

Dscf1326

Dscf1327

Y33 中丸地蔵

| | コメント (0) | トラックバック (0)